2012年6月9日土曜日

枯れない性は果たして幸せか-老人ホームの性の現場-




寝たきりのまま、腰を振る老人
 
 老人ホームの一室。70歳後半の男性が4人部屋のベットの上で寝たきりになっている。男性は最も介護が必要とされる要介護5の認定を受けており、もう自分ひとりではなにもできない状態だ。実際、口から食べ物を摂取できない。胃に直接栄養を投与する胃ろうで生命を維持している。自力での排尿もすでに不可能である。そのため、尿道にカテーテル(管)を装着している。もう身体的には自力で生きることができない。だが驚くことに、老人ホームに勤務する女性職員は男性の性欲はいまだ健在だと話す。

「夜間巡回のときです。タンが絡まっているようだったんで、吸引をしてあげたんですよ。大丈夫ですか?って顔を近づけて話しかけたんです。そしたら、キスしろと言いながら、腰を振り出すんですよ」

 若い職員の口から出たその言葉に思わず面食らってしまった。もう一度確認する。80歳近い寝たきりの老人である。身体機能や生殖機能はすでに老衰しているはずだ。車椅子にも容易に乗れない。もう先があまり長くないことをわかっているからだろうか、家族も頻繁に面会に訪れるそうだ。そんな老人が若い女性についつい反応し、腰だけは動かそうとする。「にやにやして、なんだか嬉しそうな顔をしてましたよ」と職員は語る。性へのエネルギーが寝たきりの老人を突き動かしたのだ。


死を待つ場所、老人ホーム
 
 老人になり、身体機能・生殖機能が衰えると、性に無縁になるのだろうか。そんな素朴な疑問を抱いて訪れたのは、新潟県長岡市にある老人ホーム。長岡駅からバスに乗り、30分ほど揺られると最寄のバス亭につく。大きな杉の木に囲まれている農村集落のなかに目的地である老人ホームはあった。





 まるで小学校の校舎のようだ。建物のくすんだ色のおかげでなのか、花壇に植えられている花々の彩りが妙に際立っていた。施設のなかには男女約100人が住んでいる。特別養護老人ホームという特性上、入居者は身体が衰弱し、家族介護や病院治療の末に送り込まれた人たちが多い。
 
 なかに入るとアルコール消毒液のにおいが鼻につんときたが、不思議なほどに老人ホーム特有の人間臭さというか、便臭のようなものはしなかった。廊下には近々開催されるイベントポスターや保育園児の手作りメッセージカードが壁に飾ってある。施設内は清潔でいて、色鮮やかだ

 廊下を抜けたところには共同スペースがある。そこには車椅子にのった高齢者30ほどいた。しかし、入居者同士で会話をしている人はほとんどいない。車椅子に乗ったまま動くことなく、徒に時を過ごしている人が大半だった。まぶしいほどに煌びやかなお仏壇も置かれている。おそらくこの施設から回復して自宅に戻れるような人はいないのだろう。死を待つ場所。不謹慎ながらそんな言葉が浮かんできて、ぴたりと当てはまった。

 こんな場所で性にまつわる話なんて聞けるわけがない。そう思った。しかし、現実は人間の想像をいとも簡単に乗り越える。頭のなかの推測はあっさり裏切られた。
 
 寝たきりのまま腰を振る老人の話に続き、別の男性の話を女性職員が語ってくれた。
 
唯一のプライベート空間での自慰行為

「あ、そういえばお風呂場でも見たことはありますよ」
 
 今度は浴場で目撃した性の現場について話してくれた。男性は80歳前半。車椅子に乗って生活をしている。浴場内には椅子に座ったまま入浴ができる介助器具がある。その中に専用の椅子ごと入り、体を職員から洗ってもらう。洗い終わるとタンクに入っているお湯を容器いっぱいに溜めていく。男性にとっては、介護者がその場を離れてからの数分間がようやく一人でゆっくりできる入浴タイムとなるのだ。しばらくして職員が浴場へと戻ったとき、男性の様子がどうもおかしかった。

「水中のなかで、陰部を掴んで動かしていたんですよ」

どうやら自慰行為をしていたらしい。

「あんまりいじらないの。とれちゃうでしょ、といって声はかけましたけどね」

 そもそも自慰行為自体は本人の自由である。止める権限は施設側にはない。しかし、介護器具は施設共有のもの。淫らに汚してしまうわけにはいかないので一声かけたのだという。結局、陰部は「よぼよぼ」のままだったので、射精する心配はなかったらしいが。

 おそらく、この男性にとって老人ホームで一人になれる唯一の時間がお風呂だったのかもしれない。ベットにいるときは4人部屋のなかであるし、車椅子で外に出かけられるほど体は言うことをきいてくれない。入浴器械の中に浸かっている数分間が唯一のプライベートな時間であり空間であったのであろう。 

 強烈な話をしているにも関わらず、女性職員はあまり恥ずかしがる表情を見せずに淡々と語ってくれる。それもそのはずであった。職員からすれば施設内で性の現場に遭遇することはなにも珍しい出来事ではないというのだ。あまりに想像を超えた現実の連続に、頭のなかで描いていた老人像がぼろぼろと音を立てて崩れていくのがわかった。



 老人になったら性欲は枯れる。この認識は完全なる幻想であった。人間である以上、死ぬ寸前まで性と無縁にはなれないのだ。この老人ホームでのエピソードを通して、歳を重ね、身体機能や生殖機能が衰退したとしても性的欲求を失うことなく保持し続けることはわかった。だが、これは決しておめでたい話として終わらせられるほど軽い話ではない。

「高齢者になったとき、自らの性とどう付き合っていけばよいのか」

 そんな現実的で重い問いを突きつけられた気がした。誰でも訪れる老後。いずれ多くの人が当事者として向き合わねばならない問題である。超高齢社会を迎えようとしているいまこそ「高齢者の性」を見つめ直すときではないだろうか。タブー視している場合ではない。

(佐々木健太)


2012年4月21日土曜日

「いろいろなものがボロボロになった」~30年目の有機栽培農家が失ったもの~(福島で暮らしゆく)



 3,11から1年が経過したいま、東京でテレビ・新聞を眺めていると福島に関する情報は限られたものしか入ってこなくなった。日々、ルーティーンのように流れてくるものは、福島第一原子力発電所でのトラブル、土地や食べ物の放射能汚染情報くらいだろうか。残念なことにそれらの情報も決して十分ではない。ましてや、そのような深刻な現実のなかで暮らさざるをえない人々の姿なんぞはほとんど見えてこなくなった。


 3.11を境に強制的かつ不条理に変化してしまった環境下で、彼ら彼女らはなにを考え、なにに苦しみ、どう生きていこうとしているのか、まったくわからないのだ。


 たまにメディアで取り上げられる「笑顔で頑張る被災者」を見続けると「福島の人は復興に向かって頑張ってる。強い人たちだなあ」と勘違いしてしまいそうである。既存メディアが意図せざる結果として作り上げてしまった擬似現実のなかに登場する被災者がまるですべてであるかのようだ。


 しかし、何度もの福島取材を通じて、擬似現実のなかでは無視されてしまっている人たちが大勢いることを知っている。その人たちの姿を取材し、声を代弁することことは報道の役割として必要なことではないか。そのような思いで継続的に福島に足を運び、自分の目で耳で鼻で確かめ、そこに暮らしている人々のいまを記録している。今回も福島からの報告をする。


30年目の有機栽培農家を襲った、福島第一原発事故



 4月の初旬に田村市船引町に向かった。有機栽培農家である大河原ご夫婦に会いに行くためだ。原発事故後、生産を続けている農家の現状を知りたいと思い取材を申し込んだところ、快く受け入れてくれた。


 市の中心地である船引町までは、郡山市から車で30分ほど北東方面に走らせると到着する。東側は阿武隈高地がつづき、南側には片曽根山がある。壮大な自然に囲まれていて、なんとも気持ちがいい。窓から眺める景色は何度も深呼吸をしたくなるのほどではないのだが、心地よいことは間違いない。


 田村市の面積は東西に長い。最西端の町は20キロ圏内に入っている。4月1日に警戒区域が解除されたばかりだ。


朝日新聞より転載


 
 船引駅で大河原夫妻と待ち合わせた。時間の関係から近くのファミリーレストランでお話を聞いた。鮮やかな赤のボタンシャツにエスニック柄のベストあわせる多津子さん。ジーンズにドット柄のシャツを着こなすご主人の伸さん。お洒落でとても気さくなご夫婦だ。なんでも農業の合間には人形劇の公演というユニークな活動もやっているという。


大河原ご夫妻 (筆者撮影)


 ご主人は6代目として家業の農業を引き継いだ。自分の代になったときに、農薬を使用しない有機農業に変更した。いまから30年前のことだ。結婚して以来、二人で農業に従事してきた。奥さんが就農したのは、26年前。ちょうど、チェルノブイリ事故が発生したときだった。学生時代から環境問題へ関心が強かった奥さんは、チェルノブイリ事故後、いつかの日に備えて放射線測定器(R-DAN)を購入していた。


 環境に気を使い、安心で安全な農法。お米、かぼちゃ、トマト、じゃがいも、人参などなど50種類もの野菜を作り、お客さんとの契約販売で生計を立てていた。5人の子どもにも恵まれ、おいしい食べ物を自給自足する生活を生きがいとしていた


 そんな最中、大河原夫婦を襲ったのが福島第一原子力発電所事故だった。


「いろいろなものがボロボロに崩れていった」



 大河原夫妻は福島第一原子力発電所から直線距離で39キロの地点で農業を営んでいた。3月12日の1号炉爆発時はまだ危機感が沸かなかった。26年前に買った放射線測定器が反応しなかったからだ。しかし、15日の2号炉が水素爆発したその日、いままでうんともすんとも言わなかったR-DAMが突然アラーム音を鳴らし始めた。購入以来始めて聴いたアラーム音だった。


 「とにかく急いで避難しなくてはいけないと思った」大河原さん一家は郡山市の知人の家に放射線測定器を持参して転がり込むように逃げた。


 田村市に戻ってきたのは18日。二号炉が爆発してからから3日後であった。避難先の郡山市の放射線量が上昇し始め、逆に田村市の値が減少したため戻ることを決めた。中学の卒業式を終えたばかりの息子に「家に戻って友達と会いたい」と言われたことも大きかった。


 その後、政府が田村市(一部を除く)の作付け制限を解除したのは2011年4月16日だった。大河原さんはこの場所で農業を続けてよいのかと迷いながらも、作物の栽培を再開させた。作付けしたのは7月から出荷させるための夏野菜だ。


 初夏をむかえ、例年通り有機栽培で育てられた野菜たちは大きく育った。だが、明らかに異なることは放射能という見えない不安の種があることだった。お客さんに安心して食べてもらうために、福島市の市民放射能測定所へと野菜を持ち込んだ。


結果は数字に出てしまった。


(1キログラムあたり)ジャガイモ0ベクレル、たまねぎ0ベクレル、にんじん5.4ベクレル、トマト12ベクレルだった


 トマトでWHO(世界保健機関)が基準値とする一キログラムあたり10ベクレルを超える値が検出されてしまったのだ。当時の日本の基準値である500ベクレル、新基準の100ベクレルと比較すると少ない数値ではあるが、安心安全を追求してきた有機栽培農家としては目を塞ぎたくなる結果であった。


「正直、放射能のことはよくわからなかったんです。味が違うわけではないし、なにが変わるわけでもない。けど、本当に汚染されたと実感したのはトマトで数値が出てしまったときです」とご主人は当時を振り返りながらぽつりといった。


 大河原さんは検出された放射性数値をすべて、販売契約しているお客さんに公表した。


 反応はすぐに出た。いままで直接販売していた43件の顧客のうち、3分の1にあたる14件から契約解除を求められた。安心安全な食べ物を求めて、有機農家である大河原さんから野菜を直接販売をしてもらった方たちだ。安全の部分が侵されてしまえば離れてしまうのは致し方ないが、それでも辛い現実であった。


「30年間、お客さんと信頼関係を築いてきた。単に野菜を届けるだけではない。子育ての相談や、自転車や古着をもらったり、そういう関係でやってきたんです。その関係性が一気に途絶えてしまいました。それは悲しかった。」


 ご主人の話し声はいままでの明るいトーンではなかった。契約を解除した顧客とはそれ以降、一人を除いて連絡を取れていないという


 農家にとってつらく悲しいことは、収入が減って経済的に苦しくなることだけではない。長年築いてきた、人間同士の信頼関係を失ってしまったことがなによりつらいのだ。放射性物質という得体の知れないものによって突如冷酷に引き裂かれてしまった人間関係。30年間積み重ねてきたものが踏みにじられた。


 ご主人はこの一年の出来事を振り返りながら、言葉を漏らした。


「いろんなものがボロボロと崩れていったな。」


 ご主人は気を使って明るい表情で話を続けようとしてくれていた。奥さんの目には涙が見えた。


この日、田村市の放射線量は毎時0.23マイクロシーベルトだった。(筆者撮影)


有機栽培農家としての選択、子を持つ親としての葛藤



 どうしても聞いておきたいことがあった。


「なぜ田村市という原発から遠くはない地域でこれからも有機農業を続けていこうとしているのか」ということだ。


 田村市は郡山市や福島市に比べても放射線量はぐっと少ない地域だ。食品検査の結果、トマトは10ベクレルを超えてしまったが、裏を返せばそれ以外の食物は10ベクレルより低い数値に収まっている。しかし、有機農業という安心安全を売りにしている以上、別の場所で新たに農業をはじめたほうがよいのではないか、私はそう考えていたからだ。


 聞きづらい質問であった。


 短い沈黙があった。ご主人は切実に訴えるように答えてくれた。


移動するといってもAからBにいくといった簡単な話ではないんですよ。やっぱりタテ軸があるんです。土地の歴史、6代目という重み、親戚や地域社会とのつながりといった根っこがこの場所にはあるんです。それらを全部掘り起こして、別の場所に持っていけるならいいんだけど。それにほかの場所でこれだけ長い期間かけて同じ土はもう作れないんですよ


 避難所にいる人たちやメディアからも「原発から40キロの場所で有機農業をやるのか?」と言われることがあるという。だが、歴史が詰まった場所、誇りをかけてきた土地を自らの意思でそう簡単に切り捨てれる気持ちには到底なれないのだ。


 奥さんは、「裂けそうな思い」を話してくれた。「やっぱり捨てられないです。確かに数値を見せられれば健全な土地とは言い切れない。子どもをもつ親としては放射線の値がゼロのものを食べさせたい。だから小さいお子さんをもつ親には買ってほしいとは言えません。ただ、農家としてここで継続していくためには、理解して買ってもらい私たちを支えてほしいという思いがあるんです。」


 100%安心とは言えない放射能への不安。生活をしていくためにここで農業を続けると決心した自らの選択。なにが正当なのかわからないまま「裂けそうな思い」を抱えながら進まなければならない人を前にして相槌しか打つことができなかった。


 30年間積み重ねてきた信頼関係や誇りといったものを踏みにじられてしまった上に、さらに現在と将来への不安がのしかかる。


「私たちには過失はないんですよね。なんでここまで苦しまなければいけないのかな」と奥さんがうつむきながら、つぶやいた。


 下を向いたその表情は不条理な現実への怒りとどうしようもない不安感で滲んでいた。





2012年4月16日月曜日

外遊びの自由を奪われた親子-屋内公園・ペップキッズでみた苦悩-(福島で暮らしゆく①)

「久しぶりの砂遊びです」

 2012318日。晴れた日曜の午前中。20代の若いお母さんは息子が砂遊びを楽しんでいるのを眺めていた。

 だがおかしなことに、砂場の上には太陽はない。上から降り注ぐのは蛍光灯の光のみ。落ち葉もなければ、虫もいない。周りを見渡しても緑の木々はない。あるのは壁に描かれているポップな木。

 外はよく晴れているのにもかかわらず、子どもたちは衛生的に管理されたガラス張りの部屋で久しぶりの砂遊びを楽しんでいる。

 
 これはなにもディストピアもののSF映画の内容を説明しているわけではない。核戦争後の地下世界を描いたアメリカ映画の舞台でもない。いま、福島県で実際に起きている現実の姿なのだ。

 今回から「福島で暮らしゆく」の連載を始める。声高に放射線の危険性を訴える人がいるなか、福島で暮らしていかざるをえない人たちが大半を占めている。そうであるならば、福島の地でこれからどのような新しい日常が営まれていくのかを記録していきたい。そう思った。

 第1回目は、外で遊ぶ自由を奪われた親子の苦悩を報告する。


■福島県郡山市にある“ペップキッズこおりやま”。20111223日にオープンして以来、一日平均1300人もの親子連れが訪れている(ペップキッズこおりやま調べ)。



 生後6カ月から12歳未満までの子どもが遊び場を求めてやってくる。施設内には全力疾走ができるランニングコースや屋内砂場、三輪車のサーキット場までも用意されている。


 一日4回90分入れ替え制。土日ともなれば、子供と保護者でぎゅうぎゅう詰めだ。

 なぜこのような屋内遊び場施設が作られたのか。それは施設のパンフレットに記載してある「外遊びを室内で体験できるようにしました」との言葉が大部分を説明してくれているように思う。福島第一原発事故に由来する放射能汚染によって、比較的線量が高い郡山市内の子どもたちは思うように外遊びや屋外での運動ができなくなった。そのため運動不足による心身への様々な影響を考慮して屋内公園を設置するという考えに至ったわけだ。

 原発事故以降、郡山の子どもたちは「外で遊ぶ自由」を、親たちは「外で遊ばせる自由」をいつの間にか奪われてしまった。その奪われた自由を少しだけでも取り戻すために、晴れた日の休日にも関わらず、多くの家族連れがペップキッズにやってくるのだ。

 外で遊ぶ自由を奪われてしまった親子はいま、一体なにを悩んでいるのだろうか。


免疫力の低下が心配のタネ

 砂場で子どもを遊ばせていたIさんに話を伺った。保育士でもあるIさんは、保育園年中の息子が砂場で楽しげに遊んでいる姿を眺めていた。



―― ここにはよく来られるのですか

「いえ。いままではここに来てインフルエンザに感染してしまうのが心配だったので。今日は春休みだからってことで来ました。」

―― いままで外遊びとかさせていましたか

「させてないですね。公園でももちろんさせていません。勤務している保育所でも外でのお遊戯はさせてないです。運動会も体育館でやりました。」

―― もう完全に外での遊びは避けているのですね。外遊びができなくなったことで子どもたちになにか影響とかはでていますか?

「ありますね。遊びも自由にできないので、体力不足になることはすごく気になります。それから外で遊べないので、病気に対する抵抗力が落ちるかもしれないですね。」

―― なるほど、抵抗力の低下にもつながってしまうのですね。

「関係があるかはどうかはわからないんですけど、私の勤めている保育園では今年はインフルエンザが流行りました。去年はなかった学級閉鎖が今年はありました。」


複合的リスクを抱える子ども

 栄養面や生活習慣への影響もあるという。

「やっぱり外で遊ばないから子供たちが疲れないんです。そうするとおなかが空かないからご飯やおかずを食べる量も減って栄養面が不安ですね。」

「それから生活リズムの崩れてしまうことも心配です。」

―― 生活リズムですか?どんな風に変わりましたか。

「保育園ではお昼寝の時間があるんですけど、昼間外で遊べないと子供たちはお昼寝の時間になかなか寝付けないんです。そうすると、家に帰って夕方に寝てしまって、逆に夜に寝つけなくなる。遅寝早起きになってしまうんです。」

 育ち盛りのときに栄養や生活リズムが崩れてしまうことも悩みの種のようだ。そのような環境下で長期間過ごすとなると、なんらかの健康被害を発症してもおかしくはない。

 なるほど、子どもたちは複合的なリスクを抱えているといえる。子どもたちが抱えてしまったのは、外部被ばくや内部被ばくといった放射線による直接的な健康被害のリスクだけではない。そのリスク避けるがゆえに、免疫力低下や生活リズムの乱れなどの様々な間接的被害のリスクをも抱えてしまっている。

 そしてむごいことに、両方を同時にガードすることはできない状況にある。一方を防ぐと他方がダメージを受けてしまう。放射能による健康被害を避けるために外遊びを規制すると、今度は運動不足による免疫力低下の問題が生じてしまうように。子どもたちは複合的なリスクを抱えながら暮らしていかざるを得ないのだ。



自転車乗りが教えられない

 今回の取材ではIさんをはじめとして、ほかの二人のお母さんにお話しを伺った。そのなかで健康被害以外の悩みとして共通していたものは、自転車乗りが教えられないことであった。これは意外な答えだった。

 幼稚園くらいの年になれば、そろそろ三輪車の練習をする年頃だ。自転車や三輪車こそ「習うより慣れろ」で覚えていくものであるから、外での練習が欠かせない。しかし、外にいる時間をなるべく避けたいとの気持ちから自転車乗りも満足に教えられないというのだ。

 ペップキッズには、三輪車を乗り回すことができるサーキット場コーナーもある。狭いくねくねしたコース。コース内に入って、娘に三輪車を教えている父親の姿も見られる。



サーキットコースの外から眺めていたお母さんは、

「外に三輪車を出しておくと、汚染されてしまうのでいまは家の中に閉まっています。なかなか長時間外で練習させられないし。初めて三輪車に乗れるようになるのは、ここでなのかも知れないですね」と、幼児を抱っこしながら、明るいトーンで話してくれた。まるで冗談でも言っているかのようだった。

 私も一緒になって笑って話していた。しかしそれはジョークでもなんでもないのだ。自転車を屋内で練習して、屋内で乗り回すという冗談のような現実が目の前で起きている。

 90分の制限時間が近づいてきた。子どもは遊び足りない顔をしながら、親は子をあやしながらそれぞれ帰路についていく。入れ違うように、次の回の親子連れが続々と駐車場に入ってきた。

 これが、外で遊ぶ自由を奪われてしまった親子の、これからの日常の姿なのだろうか。 

生まれ育った村で暮らしていく決意~新潟県・山古志村のいま~(後編)

中越地震の被災地、山古志村からの報告を続ける。前回は、震災の辛い記憶でもある「水没家屋」をそのまま残していくことを決断した経緯について書いた。詳しくは、前回記事をご覧いただきたい。


「一気にさ、5台くらいダーっとバスが入ってくることがある」

 驚いた表情でそう話してくれるのは、山古志村・木籠集落区長の松井治二さん。

 もの静かな集落に突然大型バスがやってくる。そんな光景は木籠集落ではもう珍しくもないようだ。

 新潟県山古志村・木籠(こごも)集落には震災7年目を迎えたいまも県内外から多数の人々が訪れている。お目当ては災害の痕跡である「水没家屋」だ。



NPO法人中越防災フロンティア」が把握している団体客数だけをみても、2006年から2010年までの年間平均は417人。個人客を合わせるとその数はおそらく倍近くになるだろう。とにかく、わずか10世帯ほどの小さな集落にそれだけの人たちが流れ込んできている。

 大型バスで集落へやってきて、集落内にある交流施設「郷見庵(さとみあん)」で住民手作りの野菜を買い、「水没家屋」の写真をパシャパシャ撮るという一過性の交流で終わってしまうものから、集落の雰囲気がすっかり気に入ってリピーターとなり、継続的に農作業や年中行事を手伝うようになったものもいる。

 どちらのタイプの訪問者も、集落の人たちにとってはありがたい存在なのであろう。帰村後、集落の過疎化は急速に進んだ。村に帰ってきたものの、自力で集落復興を担えるほどの体力は残っていなかった。そんな状況下で、外からやってくる人々は集落にとって必要不可欠な存在となっていることは確かである。

 外の人から継続的にムラづくりにかかわってもらうために、「木籠ふるさと会」という組織を立ち上げている。現在、約150名もの会員が集まっているそうだ。

 外の人間にとって新鮮な農村体験となっていることが、集落住民にとっては集落を維持していくための重要な労力支援になっている。まさに協働のムラづくりだ。中山間地域の復興モデルとしても理想的な形だと扱われることがある。

 だが、どうしても気になることがあった。そこに抵抗感はあるのかどうか。

 震災前であれば、お祭りや行事ごとを除けば異質の他者は集落にはほとんど訪れてこなかったはずだ。来客といっても親族くらいであっただろう。ところが震災を契機に様子は変わった。全く知らない他者がぞろぞろと足を踏み入れてくるようになったのだ。村内に流れるリズムが急速にテンポアップしたかのようだ。

 一見すると理想的な復興の形にみえる。けれども、集落の人は心理的にどのように感じているのだろうか。不躾なことを聞くのには躊躇したが、「知らない人を受け入れる抵抗はないのですか?」と、単刀直入に区長さんに質問した。

「受け入れなければ集落は終わる」

 「抵抗はいまでもありますよ。みんな抵抗ある。それはあるんです。でも、抵抗があるからと言うて、受け入れられなかったら、そしたらその集落は終わるわけです。自分一代はいいです。集落として機能はもうできなくなっていく。」

 あまりに正直な言葉が返ってきて、自分で質問をぶつけておきながら驚いてしまった。外の人間を受け入れることに対する抵抗はある。けれども、なんとかしても長年過ごした場所を守り通したい。その思いが勝つ。

 「こうして骨折って難儀までして集落づくりする必要はない、いくら頑張ったって死ぬときは死ぬんだよと。じゃあなにも骨折って死ぬことはないよ、という考えもあるんだよね。けど、おれは自分がいなくなるから、いまなにかをしていかなきゃ。だめだということがわかったら、だめじゃない方法があるわけだよ。」

 松井さんは笑顔のまま、語尾を強めた。集落が維持できないと思ったから、外から人を引き寄せる方法を次々と考えてきた。水没家屋を残し、交流施設「郷見庵」を建設し、被災体験を地域の一番の売りにしてまでも、生まれ育った場所が廃れていかない方法を探ってきたのだ。たしかに抵抗はある。でも、集落そのものを守っていくためにはそんなこと言っていられない。村が生きていく方法をまず考えなければならない。松井さんはどっしりと構えていた。




木籠集落の世帯数は現在12世帯。震災時の半分に減少してしまった。しかし、松井さんの頭にはアイデアがどんどん溢れてくるようだ。会話の途中、いきなりこんなことを口にする。

「おれはね、ここにね、ほんとに都をつくるくらいの思いで挑戦するんだよ。」

 都ですか?と驚いていると、松井さんは淡々といつものペースで話を進めた。

 「いまの世の中のことを考えてみれば、みんなが町のなかのスーパーだけの買い物だけで楽しむかと。じゃあいっしょにものを買うならば、ドライブがてら山までいってお茶を飲みながら、話をして、なにかひとつ買おうかなと思う人たちだっているわけです。いまスーパーはすべて郊外にでているよね。もうひとつ先をいまみれば、ここは郊外のまた郊外になるわけ。」

 郊外の郊外、山の中の都。気が付いたら、松井さんの「都」構想を前のめりになって笑いながら聴いていた。震災から7年目のいまも、小さな集落にたくさんの人が訪れる本当の理由は、「水没家屋」ではないような気がしてくる。

 コンビニも、スーパーまでも遠い。積雪3メートルも超える。なにかと不便な山を降りて、市街地で暮らす選択肢ももちろんあった。けれど、住民はこれからも山で過ごしていくつもりだ。それは、自分が生まれ育った村であり、ここで死を迎えたいと願っているからだ。集落に足を運んでみると、住民が山古志村での暮らしにこだわる理由がほんの少しわかった。


「土地と人間」

 災害によって大きな被害を受けたものは、災害の出来事そのものを「忘れたいけれど、忘れてはいけない」ものとして、ジレンマを抱えながら生きることになる。このどっちつかずの感情と向き合いながら、辛い記憶を少しずつ浄化してゆきながら、ゆっくりと気持ちを整理していくものなのだろう。

 だが、木籠の人たちはあえて違う選択肢をとった。水没家屋を残し、被災体験を地域資源として捉えなおした。災害の記憶を忘れることなく背負い続けていく道を選んだのだ。

 痛めつけられた我が家の姿を目の当たりし続けるのは、住民自らを苦しめてしまうものかもしれない。そして、ある種の観光スポット化したいま、震災前に流れていたであろう、のんびりとした時間のリズムは戻ってこないかもしれない。けれど、もう一度生まれ育った場所で暮らし続けたかったのだ。多少の自己犠牲を払ってでも、故郷は捨てることができなかった。それゆえの決意であった。

 何重もの分厚い記憶が染みついた土地にたいする異常なまでの愛情を感じた。福島の人たちのことがふと頭に思い浮かんだ。

 松井さんと別れたあと、小雨が降る山古志を急ぎ足であとにした。

水没した家屋と暮らす人々~中越大震災から7年目の新潟県・山古志村のいま~(前篇)

新潟県・山古志村という名をご存じだろうか。2004年に発生した中越大震災で壊滅的な被害を受けた地域として、全国的に有名になってしまった村である。昨年の夏、震災からの復興状況を取材するために、山古志村を訪れた。
 
 そこで奇妙な光景と出合った。山古志村のなかでも被害が深刻であった木籠(こごも)集落に足を踏み入れたときだった。集落の中心部には、数軒の家が転がり、屋根だけが地面から顔出し、無残に傷ついた家が放置されていた。震災から7年も経過しているのに、だ。

 それだけではない。ぼろぼろの家屋を見下ろすかのように、高台になっている場所には真新しい家屋が並び、人々の生活が営まれているのだ。崩壊した家屋は震災の辛い記憶を宿し、忘れ去りたいような出来事を喚起してやまないものであるはずだ。けれども、ここでは人々の生活と同居してしまってる。 


実に奇妙な光景であった。

 想像力の追いつかない光景を前にして、戸惑い、なぜか笑ってしまった。どうしても目の前の状況が理解できなかったのだ。そして惹き込まれるようにこの村としばらく付き合おうと決めた。

 これは、私が出合った奇妙な光景をめぐる記録である。

地震と水害に襲われた村

 前篇の今回は、この奇妙な光景が形成された成り行きを書いていこう。

 山古志村は新潟県長岡市中心部から車で40分走らせたところにある。人口2000人弱、全14集落から構成されている自然豊かな農村だ。四季折々に美しく景観を変えることから「日本の原風景が残る村」とも言われ、多くの写真家にも愛されてもいた。まさに、知る人ぞ知る名村であったのだろう。

 そんな山古志村を一躍有名にしてしまった出来事は、20041023日に発生した中越大震災であった。震源地に近い山古志では震度6強を観測した。山間地域を震源地にして起きたために、山古志村では土砂災害が多発した。美しい景観の棚田や緑豊かな森林は山とともに崩れた。さらには、水道、電話、電気といったライフラインが途絶。山の地滑りにより道路までもが完全に破壊され、村外へ抜ける道は閉ざされた。山古志全域には全村避難の通知が出されて、住民はヘリコプターで村を脱出した。

 木籠集落も例外なく甚大な被害を受けた。それも震災だけではない。水害の被害にも見舞われたのだ。木籠集落には芋川という河川が流れていたが、大規模な土砂崩れによって芋川が堰き止められてしまった結果、天然ダムが発生してしまった。ダムは毎日1メート近くも水位が上昇し、ピーク時には集落の最も低い場所よりも約13メートルも上がったのだ。土台から持ち上げられた家屋もあったという。

 震災から2週間後には、家屋や墓、養鯉場、牛舎など、集落の大部分が天然ダムのなかに埋まってしまった。住民は天然ダムそのものを壊して水を抜いて欲しいという要望を国土交通省に出したが、下流地域への二次災害が大きすぎるとの判断により諦めざるを得なかった。国に建物家屋の財産権を譲ることによって、かつて集落があった場所は河川区域として指定された。ダムの水位が自然に引くまでは、水の中に沈んだ集落の様子を遠く離れた仮設住宅から気にかけるしかなかったのだ。

木籠集落は、震災で村を追い出され、水害によりふるさとの一部を失った。

再び姿を現した家屋

 山古志村は「帰ろう山古志」をスローガンとして掲げ、現地再建のための支援メニューを用意していた。木籠では住宅再建のための支援制度として小規模住宅地区改良事業が適用され、なんとか現地再建を果たすことができた。集落住民が帰村したのは200712月。震災から3年もの月日が経っていた。

 無事に帰村を果たしたといっても、震災前から進行していた過疎・高齢化がさらに加速していた。高齢化率は51%とほとんど変化はなかったが(それでも十分高いが)、26世帯あった世帯数は16世帯に、67人だった人口が37人になってしまっていた。帰村までの3年間のうちに、半数近くの人たちが山古志の故郷を離れて、新天地での暮らしを選んだ。その結果、コミュニティは空洞化してしまい、集落を維持するための活動ですら、住民のみの力では困難になってしまっていたのだ。

 帰村後、集落が急速に過疎化していく一方で、新たな変化も生じていた。水没した家屋を一目見ようと、たくさんの見学者が訪れるようになっていたのだ。

 震災から3年目を迎え復旧作業が進んだ中越地方では、被災状況を目で確認できる場所はほとんどなくなっていた。そのために、水位が下がったもののいまだ放置された状態の水没家屋は、震災の被災状況を伝える数少ない場所として、自治体の視察団や野次馬根性むき出しの一般客の立ち寄りスポットになっていったのだ。

 だが、ぼろぼろな姿で再び姿を現した家屋たちは、多くの住民にとって精神的苦痛を与えていただろうと想像できる。住民のほとんどが、生まれも育ちも山古志村で過ごしてきた。そんな故郷が壊れていく姿を見ただけで胸が締め付けられただろう。さらには、長年暮らしてきた家の傷ついた姿を見続けなければいけないことが、どれほどの精神的負担となるだろうか。見るだけで悲しい記憶が甦ってくるのではないか。住民の一人は、毎日新聞の取材で「つらい記憶なので撤去してほしい」(2008/10/18)と語っている。

 そのような状況下において、家屋を残すことが集落の生きる道だと考えていたのが、木籠区長の松井治二さんだった。

区長・松井さんの決意

 2011年11月下旬、松井さん宅にお邪魔してお話を伺った。

 松井治二(71)さんは山古志闘牛会会長・山古志観光開発公社代表取締役の役職を担う山古志村を代表する人物である。自宅に到着すると、紺色のジャンパーを身にまとった松井さんが笑顔で出迎えてくれた。71歳とは到底思えないほど体格がしっかりしている。そして、山古志生まれ山古志育ちでありながら、ほかの住民の方に比べてあまり方言が強くない。インタビュー慣れをしているのかなと思ったほどである。

 世間話をしばらくした後、水没した家屋の話題になり、松井さんは静かに語った。

 「失くしてしまったらもうまったく、それで終わりのとこ〔集落〕になるから。残しておくことによってまたそれはなにかの、ねえ、活かせることはあるから。ないものは活かせないけど、あるものは活かせる」(〔〕は筆者補足)

 そう、松井さんは水没家屋をまさに活かしたのだ。集落を終わらせないために家屋を撤去せずに活かす必要があった。どういうことか。

 帰村後、急速に過疎化した木籠は自力で集落を維持することすら困難であったことは先ほど述べた。その状況を打開するために、松井さんは水没家屋を目当てに見学に来る人々の力を活用しようと考えた。水没家屋をきっかけにして、集落自体に興味をもってもらい、一過性の訪問だけではなく、継続的に村づくりに参加してもらおうとした(詳しくは次回述べるが、準区民の会というものを組織化して外部の人を巻き込んだ集落維持活動を行っている)。集落を「終わりのとこ」にしないためにも家屋を残す。水没家屋を通して生まれた人との繋がりこそが、集落に残された存続への道であったのだ。

 松井さんは話を続けた。

 「言うてみれば、村の人が反対したこのことがまた大きな得になっているんです。みんなが賛成して残しましょうというと話題にならない。みんなが反対することによって、いろいろな賛否両論がでて、それをマスコミが興味をもって取り上げることによって、またそれがイメージが大きくみんな伝わるだけです。だから反対というのは、まことにありがたいことです。(中略)反対というのはこれほど価値のあるものなのかと。みんなで賛成ですといってもだれも興味もたないよ。みんなが反対なのに、そこに現実として残っていることに意味があるんだ」

 私は動揺した。したたかすぎるほどに、戦略的であったからだ。それは、冷酷とも取られてもおかしくはない発言でもあった。

 「話し合いのときに反対の声もあがってきますよね、そのときにもう残せないといいう思いはなかったのですか」

 松井さんの語りに困惑しながらも沸いてきた疑問を訊ねた。

 「みなさんが理解できないのならばよいと。でも残してもいいと思う人のものだけ役所から拾い上げてもらって。最初はカンカンに怒って、村中の人みんな怒ったね。そこに強さがあるのは、自分の家があるということです。人のものだけで、みんなの残しましょうというのは説得できない。自分の家があるから、我慢しようやと」

 私の目を見て、笑顔で淡々と語った。

 松井さんの家も水没してしまったことは以前から知っていた。ドキュメンタリー映画『1000年の山古志』のなかで、水没してしまった我家を前にして涙を流す松井さんが映し出されていたからだ。松井さんにとっても傷ついた家屋を眺めるのは辛いことだったに違いはない。けれども、集落存続のためにもどうしても家屋を残す必要があったのだ。

 それは、集落の「いま」だけではなく、「これから」のことを見据えた決断であった。会話のなかで「50年後」、「100年後」というフレーズを頻繁に使っていたことが印象的だった。 一見冷酷に聞こえた発言も感情の冷たさから来ているものではない。長きにわたる集落の存続を誰よりも願い、その覚悟から発言されたものだったのではないか。笑顔で淡々と語る松井さんからは、青く燃えた炎に似た熱気を感じる。

 数回にわたる住民会議により、水没した家屋14棟中9棟を残していくことが集落の意見としてまとめられた。20088月のことだ。松井さんの熱意に押されるかたちで、帰村した住民たちは、集落存続のために水没家屋と暮らしをともにすることを決断したのだ。

 奇妙な光景はこうして形成されていった。

神社のすぐ先は原発20キロ圏内の立ち入り禁止ラインだった。

 2011311日以降、宮城県沿岸部の地震・津波被災地を数回訪れて現地を歩いてきた。そこには戦争でも不可能なほどの徹底的な破壊の現場があった。しかし、3.11ではもうひとつの現場がある。それは原発事故によって引き起こされた現場だ。政府が地図上で半径20キロの同心円を描き、その内側は立ち入り禁止ゾーンになってしまった。無人地帯となった地域はあの日から時が止まっている。津波被災地が破壊の現場であるとしたら、20キロゾーンの現場は不条理な現場とでもいえるだろう。
 とにかく、私はフクシマの不条理な現場を自分の目で確かめたかったのだ。もちろん、あてもないので立ち入り禁止ゾーンの内側に入ることはできない。だが、その境界線になら立つことができる。そう思った私は2011年の大晦日に福島に向かった。
 
 大晦日の夜は福島駅前のホテルでゆっくりとすごしていた。23時半ごろに外から除夜の鐘の音が聞こえてくる。二年参りでもしようかとホテル近くの稲荷神社に向かった。まさか2012年の年明けの瞬間を福島で過ごすなんて2010年の大晦日には想像もしていなかった。神社に着いたころにはすでに参拝者で長蛇の列ができていた。参列者の人たちを眺めていても、マスクをしている人は数えるほどしか見当たらない。福島市は31日、毎時0.9マイクロシーベルトを計測していたのに、だ。心配している人間のほうが「おかしい人」だと思われてしまうような空気を感じてしまう。おかしな光景だなと思いつつ、早々とお参りをすまして、ホテルにもどった。

 翌日は南相馬市の原町に移動した。立ち入り禁止ゾーンの境界を確かめるためだ。ここで原町がおかれている状況を確認しよう。原町では町の一部が20キロ圏内に入りこんでしてしまっている。昨年9月30日まではそれ以外の地域も緊急時避難準備区域として実にわかりにくい指定を受けていたが、すでに解除されている。かわりに、1125日に特定避難勧奨地点として町内で22世帯が指定された。話が複雑になってきた。まとめよう。つまり、現在の原町では、原発から20キロにかかる地域は警戒区域として立ち入り禁止ゾーン、それ以外の地域は指定が解除されたので一応は通常の生活が送れるが、数カ所のスポットで危険な場所がある、ということになっているのだ。

 立ち入り禁止ゾーンに向かうために常磐線原ノ町駅から線路沿い南東方向にタクシーで向かった。
運転手によると、10分も走らせれば警戒区域にぶつかるという。

 現地で警戒区域という言葉を聞くとやはり怖い。近づくにつれて心拍数が少し早くなっていた。しばらく車を走らせていると、数百メートル先に鳥居が見えた。そんな先からもはっきり見えるくらいであるからけっこうな大きさである。



「ここはもう警戒区域に近いですよ」

 いよいよである。私は巨大な鳥居をくぐったところで降ろしてもらった。周囲を見渡すと住宅もあり、軽トラックや郵便バイクも走っている。ここでは普通に人が暮らしているのだ。タクシーの中で心拍数が上がってしまった自分が恥ずかしい。すぐ近くに神社があった。多珂(たか)神社という名前だ。なかには参拝者が6人いたが元旦にしては寂しい人数である。私も参拝をさせてもらい、20キロゾーンの境界を探しに歩いた。
 
 神社を出て、右に曲がった。少し坂になっている。数歩進むと、すぐ先に赤字でなにか文字が書かれている白看板が立っている。 


「立入禁止」

 やっぱりそうだ。20キロゾーンの境界線である。目の前が警戒区域であるにも関わらず、今度は不思議と恐怖を感じなかった。キョトンとしてしまったのだ。それはあまりにもあっけなく発見してしまったからだけではない。想像していた光景と違っていたからだ。これまで雑誌やテレビなどで20キロゾーンの境界線にある看板の写真を見てきた。それは、大通りや農道の真ん中に看板が立てられていて、そばに警備隊がいるという写真であった。だが、目の前の光景は違う。集落の路地の真ん中に、住宅地を分断する形で看板は立てられている。警官もいない、頑丈なフェンスがあるわけではない。ガードレールをまたげば簡単に20キロ圏内に入ることができる。それもそのはずである。地図上にコンパスで作成した20キロゾーンを実際の土地で作り上げるためには、境界線の内側に入れないように、路地という路地を塞ぐ必要がある。すべての箇所に人員を割けるわけがない。それにしても、看板とガードレールによって、これまでの暮らしが崩壊してしまう現実はあまりにも不条理である。私がたっている場所と数十メートル先の警戒区域、吸っている空気は全く同じである。

 もう少し20キロゾーンの境界に近づいてみた。目の前に立って、私は思わず、「うっ」と声をあげてしまい、背中が寒くなった。



 境界線の内側では、自然の草木が地面を這うようにして成長していたのだ。まるで人間がいなくなった世界を自然が覆っていこうとしているかのようだ。「人間にたいする自然の復讐」といったら大げさであろうか。だが、私にはそのようなメッセージを感じる。少なくともそこには人間のにおいはしなかった。

 境界を分けているもの、それはたかが看板とガードレールである。けれど、そこを境にして、これほどまでにも見える光景が変わってしまう。境界線の奥はSFのような世界が広がっている。原町の放射線量は毎時0.4マイクロシーベルト程度である。0.9マイクロシーベルトを記録している福島市の半分にも満たない数値である。半径20キロの半円に入り込んでしまったがゆえに人が住めなくなり、風景も一変した。看板とガードレールによって区切られた地域は別世界になっていた。 


 引き返そうとすると、牛の匂いがした。振り返ってあたりをみると、道路を挟んで左右に小さな牛小屋があった。



 警戒区域の境界線からわずか数メートルのところである。近くへ寄ると柵から顔を出してこちらを覗いている。



 子牛のようだ。牛の耳には黄色の耳標が装着している。とういうことは、ここで育てた牛を出荷しているのであろうか。私は気になった。小屋の隣には家があったので、話を聞こうと思ったが、さすがに元旦から騒がしくしてはいけないと思いやめた。だが、ヤマト運輸の宅配トラックが近くに止まっているのを見つけて走った。地域を回る宅配業者ならばなにか事情を知っているかも知れないと思ったからだ。

トラックの運転手によると、牛の持ち主は年齢60~70歳程度で、本業として酪農をやられていたそうだ。現在は飼育はしているが、出荷しているかどうかはわからないという。

しかし、たとえ出荷できているにしても、収入が低くなる現実は避けられていないだろう。本業として取り組んでいた酪農家にとっては死活問題である。20キロゾーンはぎりぎり避けることができたものの、酪農家としての人生は過酷な状況に陥っている。今度またお話を聞きに来ようと決めて、その場を後にした。

 2012年がスタートした。なにかに区切りを付けたようにテレビ、新聞、雑誌では「復興」とい綺麗な言葉で溢れかえるようになるだろう。まるで臭いものに蓋をするかのように。しかし、なにも区切りなんてついていないのだ。綺麗な言葉で隠してはいけない。見なければならない不条理な現実は山ほどある。20キロゾーンの境界線に立ち、不条理な現実を目の当たりにして、日本は本当に変わってしまったと実感したとともに、3.11後の世界を見続けなければならないと強く思った。

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今後ともよろしくお願いします。

ブログのインポートができないので、自力で少しずつブログを移していきます。